ルノワールに関する一考察
日本で人気の高い印象派画家ピエール・オーギュスト・ルノワールについて、その絵画学習と画風の変遷を時代別にまとめた。
個人的に、印象派のあたりから、西洋画壇にみられる新たな絵画を取り込もうとする気風は、とても面白い波紋を当時の社会に投げかけたように思う。 新しい表現方法が編み出されるたびに、その時代ではしばしば「何を描いたのか理解されない」ことがある。ここでとりあげるルノワールを例にだしていえば、「戸外の光が人物や者に投げかける陰影」であろう。現代の私たちがその絵をみて、当たり前のように「光」と瞬時に理解できるのは「視覚が教育されたから」であり、自分の見るものが当時の人々の目に同じように映ったと考えることは誤りである。
絵は、記号である。どのように写実的に描いても、絵とは、平面のうえに表現された色彩のまだら模様でしかない。平面上の色彩の集合を、何が描かれたものなのか脳が理解するためには、一度あたまの中で平面を立体に置き換えるという作業が必要となる。その色彩の集合(平面)と実際の現象(立体)との間をつなげる理解が一般に共有されてはじめて、絵は普遍的に受け入れられるようになるのである。 「ものの側面を黒で塗ると影をあらわす」という今では当たり前の絵画表現も、絵の中に影を描き込むことが当たり前でなかった時代には、なぜこんなところが黒ずんでいるのか?と批判されたのである。「ものの側面に塗られた黒」という記号が影をあらわすという理解が世間に浸透するには、そのような絵が世に出てから幾ばくかの時間がかかった。 もちろんこれは一つの例でしかないが、このような公式が人々にたたき込まれていない時代があったということ、その時代の人々の視覚を教育した絵画がなんだったのかということ、それらを念頭に置きながら、この時代の絵をみるときっともっと楽しいだろうと思う。また、これからの時代、いまは難解に思える現代美術の中からも、新たな記号が生まれてくるかもしれない。 最終章では、ルノワール作の制作年代不明「鏡の前の若い女性」を取り上げ、画風に注目してそのだいたいの制作年代について推論を試みようと思う。
ルノワールは1841年、中部フランスのリモージュにて、父が裁縫師という労働者階級の貧しい家に生まれる。陶器生産の盛んな土地であったので少年時代は陶器に絵を描く仕事についた。しかし絵付けの仕事は近代化によって機械にとって代わられ、以後団扇絵をかいたり教会の垂れ幕に絵を描いたりと、絵に関係した仕事を転々する。
陶器の絵付けは白磁の上に透明の絵の具を塗り重ねる仕事であり、この仕事を通して無意識的に、彼は色彩に対する明晰な感覚を養ったはずだ。 団扇の絵付けでは17~18世紀の画家ブーシェやフラゴナールの絵を模写することで曲線的なロココ調の絵画に親み、のちに彼がアカデミックな古典に帰る基盤をつくったのではないだろうか。
また、この頃の経験で、ルノワール自身その重要性を語っている「職人的性格」が育ったと言われている。
1860年頃ルノワールは画家を志してパリに移りグレールのアトリエにはいる。アトリエは数年で辞めてしまうが、その頃からアトリエで知り合ったモネやシスレーやバジールらとフォンテンブローの森で写生を行っている。 しかし印象派のテーマである屋外の陽光が作品あらわされはじめるのはしばらくあとである。彼は63年からサロンへ出品しているのだが、この頃の作品は暗い色調の、ルノワールいわく真面目でアカデミックな作品だった。そのほとんどは落選している。
1868~69年に制作されたとみられる「小川のそばのニンフ」はやわらかな緑を背景に、青白い肌の少女が寝そべっている寒色系の画面で、題材もアカデミックで伝統的なものを用いている。 ただ、クールベのリアリスムの影響を受けているといわれている頃で、確かにこの作品も生身の少女の柔らかさや重みをそなえ、ニンフというよりは身近にいる少女のさりげない様子を捉えているように思う。
1868年から、戸外の光を画面に描きんだ作品がみられる。森の木漏れ日をうけて立つ女性を描いた「リーズ」が最初だと言われている。この頃から彼の絵は、60年代の作品にみられる暗い色調から、明るい色彩を用いた絵に変化してゆき、色彩と光の効果を追及する印象派らしい絵を描き始める。
これには、アルジャントゥイユで多くの時間をともに過ごした友人モネの影響も大きいだろう。72年にモネが居を構えたアルジャントゥイユの風景を73年に描いている。同アングルから描いたモネの作品も残っている「アルジャントゥイユの橋」は、全体的に輪郭のはっきりしない中、影になった橋脚と日光を浴びた橋脚の対比が印象的な作品である。この頃、彼が印象主義に熱狂していたことがうかがえる作品である。
1874年の第一回印象派展への参加と前後して、ルノワールは肖像画の依頼を受けるようになる。
74年制作の「ル・クール氏の肖像」は、戸外の強い光を浴びて立つ同氏を描いており、右手を突っ込んだポケットやズボンの左腿あたりに筆跡もあらわに白い絵の具が多く重ねられ、まぶしい光を表現している。また特に足元は、背景の土色からズボンのブルーグレーが浮かび上がるような立体感に驚く。弱い色調を用いて効果的にコントラストをうむことを極めた彼の優れた色彩感覚の片鱗が見られるように思う。
また、1870年代前半には、ドラクロワの影響をうけた「アルジェリア風のパリの女」などの東方趣味の色彩をもつ作品も知られている。
70年代後半から、光の描写においてルノワールには様々な試行がみられるように思う。この頃からが面白い。
76年制作の「ぶらんこ」は、木々の間から洩れた光が林道や人々にぽつぽつとカラフルに映り多様なニュアンスをだしている。中央のブランコにのった女性の顔は以前の作品よりも血色がよくなっているが、目鼻はぼかされていて、もっと後にみられる滑らかな肌や量感は感じられない。 印象派の中でも特殊な光の捉え方が同居しており、当時賛否両論となった。
また、75~76年制作とされる「陽光の中の裸婦」の試作も、同じく木漏れ日のような断片的な光が裸婦に投げかけられており、当時評価は以下のように真っ二つに割れた。
「きわめて明るく、いいポーズの裸婦の試作」(『ル・ラベル』誌)「腐敗した肉体の紫がかった色調によってわれわれを悲しい気持ちにさせる裸婦の大きな試作」「間違いなく彼女にはドレスを着せてあげたほうがよかったのに」(『ル・コンスティテューショナル』誌)
現代の我々が「陽光の中の裸婦」という作品を前にすれば、右の二の腕にうつるひときわ大きな光と、印象派風に描かれた背景の緑の中にみえる黄色みから、ひとめでそれが明るい光の中にいる女性だとわかるだろう。けれども、現実に当たり前にある光景でも絵画に描かれたとたんに当時の人々の目には理解できないものとして衝撃的に映った。 これは「屋外の光」を絵の中に描き込むということが当たり前でなかった時代の人々の視覚が、それを光と認識できるまでに教育されていなかったからだろう。 しかし、それだけともいえない。たしかに、微妙すぎる光の陰影は肌から艶を奪い、裸婦の顔面は当時腐肉と評されたのも頷けるほど血色が悪い。現代からみても、目もとなど殴られた跡のように見える。瞳にも生気がない。 新たな表現を追求するあまり、過剰に陰影を表現しようと試みたせいではないだろうか。
この頃の作品には次のことが共通しているように思う。 ひとつは、様々な時代の古典作品の学習。「ぶらんこ」では、ロココ調を代表するフラゴナールの同名作や、17世紀のヴァトーに通じるすぐれた構図との関連が思い当たるし、「陽光の中の裸婦」はルーブル美術館の「恥じらうアフロディテ」の彫刻と全く同じポーズをとっているからである。 ふたつめは、自然に溶け込む印象派主義的な光と、その印象派をこえる新たな光の表現への試み。 さいごに、後期に開花する健康美の片鱗や、彫刻作品への興味。これらは題材の選び方や、描かれた人物の腕や乳房の豊かな肉付きに表れている。
このように一挙にぐるぐると盛り込まれた多方面へのアプローチは、ルノワールが自分の絵に悩みはじめ様々に打開を試みた迷走の跡といえるのではないだろうか。
1881年からルノワールはアルジェリアとイタリアへ旅行し、大きな示唆を得た。 「戸外の光の中では多彩に変化する光に圧倒され構図がおろそかになる」といった彼自身の言葉や、「印象派は自分に関していえば袋小路だった」という後の述懐からもわかるが、この旅行は、色彩に頼りすぎる印象派の表現だけでは行き詰まってしまったルノワールが再び造形を求めるためのものだった。
アルジェリアで彼はラファエロのヴィナスのふくよかで健康的な美を発見し、ポンペイの壁画の造形性に潜む色彩に目覚める。 いずれも1880年に制作された「イレーヌ・カーン・ダンヴェルス」や「最初の外出」や「ボートを漕ぐモネの家族」などの絵に比べて、「雨傘」(1883)や「ヴァルジュモンの子供たちの午後」(1884)や「長い髪をした若い娘」(1884)などは明らかに輪郭がはっきりしており、色白の肌の人物が多く描かれている。 1881年のアルジェリア旅行が彼の画風を大きく変えたのである。
1883~87年は、彼自身「固い線の時代」と呼ぶ、アングルの影響をうけたくっきりした線をもつ作品を多く描いた。
87年にその集大成ともいえる大作「浴女」が完成する。古典的フォルムを取り戻した彼のこの作品はしかし評判が悪かったという。
1890年代以降、ルノワールは透明な絵の具を用いた軽やかな色彩を発揮するようになる。一時期フレスコ画の影響で油を抜いた絵の具を使っていたらしいが、この頃から再びつややかな画面が戻る。 しかし同じ油絵具でも、印象派は不透明で強い色の絵の具を多用するのに対し、ルノワールはガランス系の弱い色の絵の具を使っている。もはや彼は印象派とは呼べなくなっていた。 そして同時に、つやのあるマチエールで描いた上流階級の人々の肖像画は人気を博し、彼は売れる画家となってゆく。
また1892年のスペイン旅行をうけてか、この頃はスペインの風俗を多く描いている。 1894年制作の「スペインのギター弾き」は、ぼかされた中にもなめらかなフォルムがよくみてとれる。また、左上の植物の緑、右上の壁の橙、右下の帽子の黒、左下の靴下の白といった具合に、四隅におかれた異なる色が、弦からポロポロ奏でられる影のあるスペイン音楽の醸す雰囲気ある空気を感じさせ、さらに右上がりに伸びたギターのネックと足の置き方がバランスのよい構成をつくり、あくまでも中央のサウンドホールに焦点が置かれるという、バランスよくまとまった秀作といえるだろう。 晩年に向かう画家の落ち着いた余裕が感じられるように思う。
このスペイン旅行では17世紀のバロック画家ベラスケスにいたく感銘をうけており、やはりルノワールは生涯をとおして古典趣味の傾向があるといえる。晩年にみられるいささか神話的すぎる画風も、こういった経験によるのではないだろうか。
また、この頃からリュウマチが悪化する。1917年制作の、同じくスペイン風の題材を扱った「闘牛士姿のアンブロワーズ・ヴォラール」は、斜めに腰かけた男の足先とは反対側の床に据えられたバラの花によって効果的に画面に安定感と茶目っ気が付され、晩年のルノワールの技術ないし感性の円熟を感じるが、ふくらはぎの肌は「スペインのギター弾き」の頃よりも平面的で細やかでなくなっている。 手が不自由なせいか、そのような画面を好むようになったせいかは判断が難しい。
1907年にルノワールは、リュウマチの療養も兼ねてカーニュに建てたコレットに移る。 ここで没するまで描かれ続けたのは、かなり豊満な女性像やバラの花である。描かれる女性にたわわに肉が付けられるのは、ラファエロの影響もあると言われている。 また、プロのモデルではなく身近な女性たちを描いたせいもあるだろうが、ぼんやりと描かれるドレスに引き立てられて目鼻立ちがくっきりし、目には光、頬には紅がさし、そこにはリアルな生気が感じられる。 以後ますます彼の描く女性には、手放しの楽しげな生きる喜びのようなものが溢れる。それはリュウマチのせいか好みのせいか、筆致が大まかになった最晩年まで変わらない特徴である。
「鏡の前の若い女性」は、晩年に描かれるかなり肥えた女性に当てはまり、また耳のあたりに左手をもってくるポーズが1911年制作の「バラを飾るガブリエル」とよく似ていることから、まずこれは晩年の作と考えられる。
彼の描く女性像は1909年の「座る娘(エレーヌ・ベロン)」がピークだと思う。ルノワールが三か月を費やしたというこの絵は、非常に細やかに描き込まれている。「スペインのギター弾き」でもみられた、やわらかな輪郭線の中の明確なフォルムが清新な印象をあたえる。またやわらかな顔の輪郭線にぷりぷりとした頬がはちきれそうに輝き、光を入れられた瞳によってモデルが非常に明るく生き生きとしている。モデルに慣れていないエレーヌ・ベロンの所在無げな視線や恥じらうような唇がよく表され、腕に至ってまで丁寧にふっくらと若くて血色のいい肌が表現されている。 これと比べると、「鏡の前の若い女性」は輪郭がぼけているうえ、肌に筆のタッチが残る。
「座る娘」(1909)→「バラを飾るガブリエル」(1911)→「コロナ・ロマノ(バラの若い女)」(1912)→「バラ色の服をきたコロナ・ロマノの肖像」(1913)と順にみていくと、徐々に輪郭がぼやるとともに、身近な生活の中の個性、切り取られていない姿態という特徴が減ってゆくように思う。この没個性は、楽園的なぼやかされた女性像となって「水浴の後」(1915)にあらわれる。「鏡の前の若い女性」の特徴は、1911~15年の頃に位置づけられると思う。
また、肌の色をみると、やや暗い肌色の「ガブリエル」と赤みの強い「バラの女」と「鏡の前の若い女性」はだいぶ異なり、むしろこれらの間の1912年制作の「コロナ・ロマノの肖像」の黄色みがかったものに近い。 しかしそれよりも近いのは、亡くなる前の年に描かれた「アデル・ペッソン」(1918)の肌色である。肌質も似ている。 加えて、画面の鏡がもはや背景と一体化しているところも、アデル・ペッソンのドレスが肌や背景の色彩に溶け込んでいるところに酷似しているように思う。
また背景を観察すると、落ち着いた色彩を用いて若くないモデルとの秀逸な調和を醸すガブリエルの絵にはじまって、「バラの女」も「アデル・ペッソン」もあまり色数の多くない落ち着いた色彩である。 これに対し、「鏡の前の若い女性」の背景は、赤も青も黄も緑も奔放に散りばめられている。この四方へ拡散するとりどりの色は、1915年の「水浴の後」の画面に散らばる色と、明度彩度や色の比率に似ており、弛緩した幸福感が共通している。この、技術を通り越してもはや画家の手を離れて高揚してゆく幸福感は、アデル・ペッソンの絵の全体を覆う黄色に辿りつくのではないだろうか。
これらのことから、本作は1913年制作「バラ色の服をきたコロナ・ロマノの肖像」以降、1918年制作「アデル・ペッソン」以前、1915年制作「水浴の後」前後に描かれたものではないかと推察する。