ルノワールに関する一考察


35歳頃~@1875年頃~

70年代後半から、光の描写においてルノワールには様々な試行がみられるように思う。この頃からが面白い。
76年制作の「ぶらんこ」は、木々の間から洩れた光が林道や人々にぽつぽつとカラフルに映り多様なニュアンスをだしている。中央のブランコにのった女性の顔は以前の作品よりも血色がよくなっているが、目鼻はぼかされていて、もっと後にみられる滑らかな肌や量感は感じられない。
印象派の中でも特殊な光の捉え方が同居しており、当時賛否両論となった。
また、75~76年制作とされる「陽光の中の裸婦」の試作も、同じく木漏れ日のような断片的な光が裸婦に投げかけられており、当時評価は以下のように真っ二つに割れた。
「きわめて明るく、いいポーズの裸婦の試作」(『ル・ラベル』誌)
「腐敗した肉体の紫がかった色調によってわれわれを悲しい気持ちにさせる裸婦の大きな試作」「間違いなく彼女にはドレスを着せてあげたほうがよかったのに」(『ル・コンスティテューショナル』誌)
現代の我々が「陽光の中の裸婦」という作品を前にすれば、右の二の腕にうつるひときわ大きな光と、印象派風に描かれた背景の緑の中にみえる黄色みから、ひとめでそれが明るい光の中にいる女性だとわかるだろう。けれども、現実に当たり前にある光景でも絵画に描かれたとたんに当時の人々の目には理解できないものとして衝撃的に映った。
これは「屋外の光」を絵の中に描き込むということが当たり前でなかった時代の人々の視覚が、それを光と認識できるまでに教育されていなかったからだろう。
しかし、それだけともいえない。たしかに、微妙すぎる光の陰影は肌から艶を奪い、裸婦の顔面は当時腐肉と評されたのも頷けるほど血色が悪い。現代からみても、目もとなど殴られた跡のように見える。瞳にも生気がない。
新たな表現を追求するあまり、過剰に陰影を表現しようと試みたせいではないだろうか。
この頃の作品には次のことが共通しているように思う。
ひとつは、様々な時代の古典作品の学習。「ぶらんこ」では、ロココ調を代表するフラゴナールの同名作や、17世紀のヴァトーに通じるすぐれた構図との関連が思い当たるし、「陽光の中の裸婦」はルーブル美術館の「恥じらうアフロディテ」の彫刻と全く同じポーズをとっているからである。
ふたつめは、自然に溶け込む印象派主義的な光と、その印象派をこえる新たな光の表現への試み。
さいごに、後期に開花する健康美の片鱗や、彫刻作品への興味。これらは題材の選び方や、描かれた人物の腕や乳房の豊かな肉付きに表れている。
このように一挙にぐるぐると盛り込まれた多方面へのアプローチは、ルノワールが自分の絵に悩みはじめ様々に打開を試みた迷走の跡といえるのではないだろうか。

70年代後半から、光の描写においてルノワールには様々な試行がみられるように思う。この頃からが面白い。
76年制作の「ぶらんこ」は、木々の間から洩れた光が林道や人々にぽつぽつとカラフルに映り多様なニュアンスをだしている。中央のブランコにのった女性の顔は以前の作品よりも血色がよくなっているが、目鼻はぼかされていて、もっと後にみられる滑らかな肌や量感は感じられない。 印象派の中でも特殊な光の捉え方が同居しており、当時賛否両論となった。
また、75~76年制作とされる「陽光の中の裸婦」の試作も、同じく木漏れ日のような断片的な光が裸婦に投げかけられており、当時評価は以下のように真っ二つに割れた。
「きわめて明るく、いいポーズの裸婦の試作」(『ル・ラベル』誌)「腐敗した肉体の紫がかった色調によってわれわれを悲しい気持ちにさせる裸婦の大きな試作」「間違いなく彼女にはドレスを着せてあげたほうがよかったのに」(『ル・コンスティテューショナル』誌)
現代の我々が「陽光の中の裸婦」という作品を前にすれば、右の二の腕にうつるひときわ大きな光と、印象派風に描かれた背景の緑の中にみえる黄色みから、ひとめでそれが明るい光の中にいる女性だとわかるだろう。けれども、現実に当たり前にある光景でも絵画に描かれたとたんに当時の人々の目には理解できないものとして衝撃的に映った。 これは「屋外の光」を絵の中に描き込むということが当たり前でなかった時代の人々の視覚が、それを光と認識できるまでに教育されていなかったからだろう。 しかし、それだけともいえない。たしかに、微妙すぎる光の陰影は肌から艶を奪い、裸婦の顔面は当時腐肉と評されたのも頷けるほど血色が悪い。現代からみても、目もとなど殴られた跡のように見える。瞳にも生気がない。 新たな表現を追求するあまり、過剰に陰影を表現しようと試みたせいではないだろうか。
この頃の作品には次のことが共通しているように思う。 ひとつは、様々な時代の古典作品の学習。「ぶらんこ」では、ロココ調を代表するフラゴナールの同名作や、17世紀のヴァトーに通じるすぐれた構図との関連が思い当たるし、「陽光の中の裸婦」はルーブル美術館の「恥じらうアフロディテ」の彫刻と全く同じポーズをとっているからである。 ふたつめは、自然に溶け込む印象派主義的な光と、その印象派をこえる新たな光の表現への試み。 さいごに、後期に開花する健康美の片鱗や、彫刻作品への興味。これらは題材の選び方や、描かれた人物の腕や乳房の豊かな肉付きに表れている。
このように一挙にぐるぐると盛り込まれた多方面へのアプローチは、ルノワールが自分の絵に悩みはじめ様々に打開を試みた迷走の跡といえるのではないだろうか。